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東京高等裁判所 平成7年(う)1668号 判決

裁判所書記官

名田明弘

本籍

千葉県木更津市祇園五三一番地

住居

右同

会社役員

長谷川忠治郎

昭和一一年三月一一日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成七年六月八日千葉地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官中島浩出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

第一  本件控訴の趣意は、弁護人井上五郎、同田邨正義、同横井弘明及び同本田陽一共同作成名義の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官中島浩作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第二  控訴趣意中、原判示第三の事実に関するほ脱の故意を欠く旨の主張について

一  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、平成二年分の所得税のほ脱の事実(原判示第三の事実)に関し、被告人が緑営不動産株式会社(以下「緑営不動産」という。)に対し千葉県袖ヶ浦市蔵波字宿畑三番七雑種地一四三五平方メートル及び同所八番三公衆用道路三八平方メートル(以下、あわせて「蔵波物件」という。)を代金一三億三六七四万円で売り渡した(以下「本件売買」という。)ことによる所得について、被告人にほ脱の故意があったと認定判示している。しかし、蔵波物件に隣接して在原諒所有の同市蔵波字宿畑一五番一宅地一一五平方メートル(以下「在原土地」という。)があり、蔵波土地の接道部分を広げるためには、在原土地をも取得する必要があったことから、本件売買における口頭の特約により、被告人が在原土地を買収し又は買収交渉して緑営不動産に取得させることとし、それが不成功の場合には、緑営不動産は、本件売買を解除することができるとされていた(以下「本件特約」という。)したがって、本件売買は、本件特約があるため、解除条件付き売買ないしは買主の解除権が保留された売買というべきものであり、被告人としては、解除のないことが確定しない限り、本件売買による代金の取得も確定せず、平成二年分の所得とはならないと認識していたから、ほ脱の故意を欠いている。したがって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというのである。

二  そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討するに、原判決が認定するところは、被告人にほ脱の故意があった点を含め、全て正当であり、原判決が争点に対する判断第一で説示するところも概ね正当であって、原判決には所論のような判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認はない。

すなわち、関係各証拠によると、被告人は、平成元年三月二三日、綾神産業株式会社から蔵波物件を代金二億三一五〇万円で買い受け、その後これを緑営不動産に売り渡し、緑営不動産からその代金として平成二年二月九日に手付金一億円を、同年四月一〇日に残金一二億三六七四万円をそれぞれ受領し、これと引換えに、同日、緑営不動産に対し蔵波物件につき所有権移転登記手続をしたことが認められるから、右蔵波物件の売買による所得を含む一〇億六五八八万一一五三円が平成二年分の被告人の所得(ただし、分離課税による土地の雑所得額)となったことは明らかである。

また、売買契約につき本件特約のようなものが付されていた場合であっても、それは、売買の解除の効果が発生したときに税額の更正の請求の手続によって補正されるべきものであるから(国税通則法二三条二項三号、同法施行令六条一項二号)、本件特約の存否は、本件売買による所得の帰属時期及び期限に影響を及ぼすものではない。そして、仮に被告人自身が、本件特約が存在しており、本件売買の解除がないことが確定して初めて所得が帰属するものと認識していたとしても、それは、単に所得の帰属時期及び納期限についての法律の定めを誤解していたに過ぎないから、ほ脱の故意を阻却するものではない。したがって、いずれにしても、右所得について、被告人にはほ脱の故意があったと認められる。

三  本件特約が存在しなかったことについて敷衍するに、まず、関係各証拠によると、次のような客観的事実が認められる。

1  被告人は、前記のとおり平成元年三月に三和産業有限会社(以下「三和産業」という。)名義で蔵波物件を買い受けて後、その買い手を探していた。その情報が、木更津信用金庫職員渡辺賢(以下「渡辺」という。)を通じて、緑営不動産の親会社である東京湾観光株式会社(以下「東京湾観光」という。)の取締役部長中嶋弘好に入り、同人から更に緑営不動産の業務部長伊原大二郎に伝わった。東京湾観光は、蔵波物件の近くでゴルフ場を所有して経営し、当時、ゴルフ客のためのホテルの建設を計画しており、蔵波物件は右のホテルの用地に適していると判断されたことから緑営不動産がその取得に乗り出すことになった。

2  平成二年二月五日、被告人と伊原は、初の会合を持った。これには渡辺も同席し、緑営不動産は中嶋、伊原の部下の佐々木明らも列席した。その場で、伊原は、蔵波物件を購入したい旨申し入れたが、被告人は、他からも引き合いがあり、早くしないと他へ流れるおそれがあると述べた。同月七日、同一メンバーで再度の交渉が行われ、蔵波物件を一三億三六七四万円(坪単価三〇〇万円)で売買し、手付金一億円を同月九日に支払うことなどが合意された。ただし、被告人の要望により、蔵波物件の所有名義人である三和産業を緑営不動産が買い取るという法人売買の方法によることとされた。右交渉に当たり、緑営不動産は、不動産買入承諾書(甲一八三)を提示し、被告人は、緑営不動産が予め用意していた売渡承諾書(甲一八二)に署名押印してこれを伊原に交付したが、右不動産買入承諾書の七条によると、将来の在原土地の買取りについて、「特約条項として存原土地及びその隣の高橋鶴吉所有土地について、売主は両名に対して、土地の売買の斡旋を積極的に行うものとする。」と定められているに過ぎなかった。なお、右交渉の概要報告として作成された「二月八日、長浦駅前土地(蔵波物件)購入の件についての打合せ事項」と題する緑営不動産の内部文書(以下「内部文書甲」という。)には、緑営不動産が在原土地を取得できるように被告人が交渉中であり、三か月以内に大丈夫との返事を得た旨記載されていた。

3  同月九日、緑営不動産から右手付金一億円が三和産業名義の預金口座に振込送金された。そして、同月一五日、法人売買を行うに際し債務の承諾を危惧して緑営不動産が要求した三和産業の財産目録が作成できなかったため、法人売買の方法が断念され、被告人と伊原らが更に交渉した結果、国土利用計画法上の手続を回避するため、架空の訴訟を提起して裁判上の和解による代物弁済の形式をとることとした。そのころ、本件取引が売買契約であることを明らかにしておくために同月二一日付けの覚書(甲一九一)が作成されたが、この覚書中には本件特約の存在を窺わせる記載は一切なかった。

同月二一日、蔵波物件について、緑営不動産を権利者とする抵当権設定仮登記がされ、同月二八日には、緑営不動産から被告人(三和産業名義)に対する貸金請求の訴訟が提起され、同年四月四日、被告人と緑営不動産は、被告人が緑営不動産に対し蔵波物件を代物弁済する旨の裁判上の和解を成立させた。そして、前記のとおり、同月一〇日、緑営不動産から被告人に対し残金金額が支払われるのと引換えに、蔵波物件について、緑営不動産に対し同日付け代物弁済を原因とする所有権移転登記がされた。

4  被告人は、右売買代金を三和産業名義の預金口座に入れた後、更に別の仮名・借名口座に預金替えした後、平成二年中に、それを資金として有限会社ジュエルキャッスル等の名義で千葉県鴨川市所在の土地等を購入した。

緑営不動産の右購入資金は、全て親会社である東京湾観光が提供しており、東京湾観光は、この資金について、当初は緑営不動産に対する貸付金としていたが、その後建設仮勘定とし、更に土地勘定に振り替える経理処理をしている。このようなことから、蔵波物件について、東京湾観光等を債務者とする根抵当権が平成二年一〇月(極度額三億円)と平成四年三月(同一億円)にそれぞれ設定されている。

5  ところで、伊原が作成した平成二年四月二七日付け伺い書(甲一九二。以下「内部文書乙」という。)によると、蔵波土地の所得について、第一段階の購入手続は終了したが、第二段階として在原土地を買収し全体的な地形を整える交渉が残っており、それについては売主が責任をもって交渉することになっていると記載されていた。そして、被告人は、本件売買の前後にわたり、被告人や妻や有限会社信栄不動産を通じて何度か在原土地の買収交渉を試みた。また、在原諒の親戚筋に当たるために伊原から別途依頼を受けた渡辺も、在原諒と接触し説得を試みた。しかし、同人が平成二年七月に脳溢血で倒れ、平成三年三月に死亡したため、買収交渉は頓挫した。

伊原は、この間の同年九月ころ、渡辺から在原土地の買収の見込みが立たないことを聞いたが、その後も、被告人に対し在原土地の買収に努力するよう要求したに過ぎなかった。右のとおり、緑営不動産は、在原土地の買収交渉が頓挫したことにより、本件売買の解除を検討しておらず、かえって平成三年二月ころ、価格の低落による損失を少なくするために自らが蔵波土地を売却することを検討し、その価格調査を行うなどしている。結果的には、坪二〇〇ないし二二〇万円であって購入時より一〇〇万円近くも下落していたので、売却しないこととした。なお、伊原が作成した平成三年二月二日付けの伺い書(甲一九三。以下「内部文書丙」という。)によると、蔵波土地の評価について、在原土地を買収して地形をよくし、評価を上げなければならないが、現状としてはその買収交渉を継続しているものの日時を要するなどと説明し、購入時より坪一〇〇万円低い価格を報告している。

6  平成三年一二月ころ、在原諒の相続人から不動産業者を介して緑営不動産に対し、在原土地を二億円で売りたいとの申し出があったが、緑営不動産は、それは高額に過ぎ、本件売買の際に被告人が在原土地の売買の斡旋を積極的に行うと約束していたことから、被告人に売買価格の交渉をさせることにした。緑営不動産は、平成四年春、被告人から一億円程度になりそうであるとの報告を受けたので、被告人の方で買い取ってそのまま所有しておいてほしい旨依頼したが、被告人に拒否され、結局、在原土地を買収することを断念した。そして同年末ころ、被告人に対し、在原土地を買収する必要がないことを伝えた。

四  所論に沿う証拠には、次のものがある。

1  まず、被告人は、捜査段階及び原審公判廷において、おおむね次のような趣旨の供述をし、当審公判廷においてもこれを維持している。

すなわち、本件売買成立前の交渉の際、伊原から公道からの入口のない土地は買えないと言われたので、自分が責任をもって在原土地の地上げをするから大丈夫であると答えたところ、どうやって責任をとるかと聞かれたので代金を返して白紙にすると答えた。伊原から一筆書いてくれと頼まれたが、癪にさわる言い方であったので、自分の方から取引してもらわなくてもよいと言った。すると、立ち会っていた渡辺が、被告人は約束を守る男であり、自分も全面協力すると言ってくれた。伊原も納得し、書面化せず口約束に止めることにして、本件特約が合意された。本件特約により、在原土地が買収できた時点で本件売買を正式売買とし、これができない場合には、緑営不動産側の判断により本件売買を解除することができるものとし、そのときには、代金全額と蔵波物件を返還することとされ、右買収の時期については、早ければ二、三か月後であるが、東京湾横断道路の完成予定時期を念頭に、二、三年後を目処とし、値段は坪三五〇万円程度を目安とするとされた。そして本件売買の後、被告人は、在原土地の買収交渉に努力していたが、これができないうちに、平成四年一二月二日、伊原から本件特約はなかったことにする旨の電話があり、これによって本件売買が正式になったものである。

2  また、証人伊原大二郎は、原審公判廷において、次のような趣旨の供述をする。

すなわち、平成二年二月七日の交渉の際、自分は、被告人に対し、在原土地を取得できないと蔵波物件を購入する価値がないので、責任をもって在原土地を買収してくれるようにしつこく求めた。被告人は、責任をもって買収すると答えたので、自分が、もし買収できなかったら、本件売買を白紙に戻してよいのかと強く言ったところ、被告人は、当然であると答えた。その後も、このことを確認し、前記覚書に記載することを求めたと思うが、被告人が避けて欲しいと言うので、当時売手市場であったこともあって、被告人を信用することにし、口約束に止めた。本件売買の後、在原土地を買収できないでいるうちに、被告人に対する査察調査が始まったりしたため、平成四年一二月初めころ、上司の指示により、被告人に対し右口約束はなかったことにする旨を伝えた。

五  そこで、前記三の認定事実を踏まえて、右の被告人の供述及び伊原の供述の信用性について検討する。

1  もともと、本件特約は、その性質上、蔵波物件の買主として売買代金全額を被告人に支払っている緑営不動産にとって重大な関心があるものであるから、本件特約が結ばれていたとすれば、当然同社の側にその存在を証明する資料が保存されていてしかるべきであるのに、その存在を窺わせる証跡は全く見当たらない。たしかに、在原土地の取得ができなければ、蔵波物件を十分に活用することができないのであるから、緑営不動産が在原土地の買収を希望していたことは明らかである。しかしながら、本件売買の条件についての緑営不動産の考え方を最もよく表しているとみられる緑営不動産作成の前記不動産買入承諾書によると、被告人が在原土地の売買の斡旋を積極的に行うものと定められていたに過ぎず、その後に作成された緑営不動産の前記のような内部文書甲ないし丙においても、本件特約の存在を窺わせるような記載は一切存在していない。また、本件特約があるとすれば、本件売買の解除に至ることもあるのであるから、緑営不動産としては、その場合の一三億円余の代金の返還請求について保全措置をとることなどが考慮されてしかるべきであるが、そのようなことが検討された形跡もない。また、緑営不動産は、平成三年二月ころ、価格の低落による損失を回避するなどのために蔵波物件の売却を検討した際、そのころには在原諒の病気のため在原土地の買収が見通しの立たない状態となっていたにもかかわらず、本件特約の存在を意識した対応をしておらず、調査した価格が低額に過ぎたために売却を取り止めているに止まる。さらに、その後、在原諒が死亡し、在原土地の取得が頓挫した後にも、格別の対応をしていない。結局、緑営不動産としては、本件売買当時はいわゆる売手市場であり、被告人から他にも引き合いがあって早く契約する必要があるなどと言われたりしたため、在原土地の買収について被告人に斡旋の責任を負わせることにしたものの、その不成功を本件売買の解除条件とすることまで要求することができなかったものと認められるのである。

所論は、本件特約は、蔵波物件購入の責任者であった伊原が交渉の場に臨んで被告人に対して強く求めたものであるから、緑営不動産内部で事前に作成されていた不動産買入承諾書七条の特約条項と本件特約が異なっていても不合理ではないというけれども、当時は売手市場であり、交渉開始後早々に本件売買の条件が合意されていることなどに照らすと、緑営不動産側が事前に内部で検討していた不動産買入承諾書七条の特約条項以上に有利な条件を交渉の場で被告人に提示して説得ができたとは到底考えられない。

また、所論は、緑営不動産の内部文書甲ないし丙を子細にみれば、文書化されない本件特約の存在を推知させる内容が多々含まれているという。しかしながら、内部文書甲には、在原土地等について被告人の手で三か月以内に取得できるかのような楽観的な見通しがあったことが記載されているが、それは、緑営不動産が、被告人の言うままに、近々に在原土地等が買収ができるものと期待していたことを窺わせるに止まり、本件特約の存在を推知させるものではない。また、内部文書乙は、蔵波土地の情報を提供し本件売買に立ち会うなどした渡辺に対する謝礼をするについての決裁文書であり、そこには、第一段階として蔵波物件の購入、第二段階として在原土地の買収を位置づけ、第一段階は終了したが、第二段階については被告人が責任をもって交渉することになっているなどと記載されているのであるから、むしろ本件売買は既に完結し、在原土地の買収はこれとは別の問題であるとの認識を示すものであることが明らかである。さらに、内部文書丙は、緑営不動産において、損失を食い止めるために蔵波物件の売却を検討した際に作成されたものであり、在原土地の買収の必要性についても触れているものの、在原土地の買収不能による本件売買の解除については全く言及しておらず、むしろ本件特約が存在していなかったことを窺わせるものである。

2  次に、本件特約が合意されていたとすれば、解除に至った場合、原状回復として代金一三億円余と蔵波物件とがそれぞれ返還されることになるのであるから、解除の要件、手続、原状回復の方法等が具体的、明確に書面化されて将来の争いを避ける必要が大きいにもかかわらず、全く書面化されておらず、被告人の供述によっても、在原土地を買収する期限やいかなる場合に買収が不能となったとするのか等については極めて不明確である。

3  さらに、本件特約が存在していたとすれば、緑営不動産としては、在原土地の重要性に照らし、被告人に対し、在原土地の買収に努力を傾注することを強く要求し、場合によっては本件特約に基づく本件売買の解除を示唆することができたにもかかわらず、当初は、渡辺による在原土地の買収に期待し、平成二年九月ころに同人からその見通しが立たないことを聞いた後に、ようやく被告人に対し、在原土地の買収に努力するよう要求したに過ぎない。他方、被告人においても、本件売買の前後を通じて、妻や信栄不動産を介して何度か在原諒との買収交渉を行ったに止まり、同人が病気となり死亡した後は、その相続人と接触した形跡はない。これらは、本件特約がある場合の当事者の行動としては理解することが困難である。

4  加えて、伊原は、前記のような趣旨の供述をする一方で、本件売買は正式な売買であり、代金決済により所有権が確定的に緑営不動産に移転したとし、在原土地買収時をもって正式売買とする認識はもっていなかった旨供述しており、その供述内容は首尾一貫していない。また、緑営不動産の関係者で伊原の部下又は上司として本件売買に関与した佐々木明、中島弘好、佐々木昭夫、川口展弘及び山崎哲夫は、いずれも、検察官調査中で、本件特約の存在を否定し、本件売買は在原土地の買収問題とは別に完結した旨供述しているのであるから、ひとり伊原のみがこれと異なる趣旨の供述をしているのはまことに不自然である。

所論は、本件特約は伊原と被告人との間で交わされたものであるから、緑営不動産のその他の関係者が本件売買の交渉に関与したとしても、どの程度本件特約のことを知り得たか疑問であるというけれども、本件特約が被告人との緑営不動産との合意であるとする以上、その重要性に照らし、緑営不動産の他の関係者が知らないというのは余りにも不合理というほかはない。

5  もっとも、関係各証拠によると、緑営不動産は、平成三年一二月ころ、在原諒の相続人から在原土地を二億円で売りたいとの申し出を受けて、被告人に右相続人との売買交渉をさせ、平成四年春、被告人から一億円程度になりそうだとの連絡を受けて、被告人の方で買い取ってそのまま所有しておいてほしい旨依頼したが、被告人に拒否されたため、結局、在原土地を買収することを断念したことが認められる。

この点に関し、所論は、被告人が右売買交渉をしたことは、本件特約の存在を窺わせるという。しかしながら、本件売買においては、被告人に対し、前記不動産買入承諾書第七条に基づく在原土地の売買の斡旋を行う義務が課せられていたことは明らかである。そして、被告人に右売買交渉をさせた経緯について、伊原は、「在原諒の相続人の申し出を受けて上司に報告したところ、掲示額二億円は高過ぎて話にならないが、被告人と口約束があったのであろう、被告人に価格交渉を一任したらどうかと指示され、右のような対応をした」旨供述している。伊原の右供述に照らすと、緑営不動産は、被告人に右のような売買の斡旋をする義務があることを前提として、在原諒の相続人の申出価格が高額過ぎるために被告人に売買交渉をさせたものとみることが十分可能であって、被告人による買収交渉の事実が必ずしも本件特約の存在を示すものとはいえない。なお、在原諒の相続人側の仲介人の一人である渡辺盛の業務日誌には、共に仲介をしようとしていた在原真也から平成四年一二月一二日に報告を受けた事柄として、「同人が伊原と連絡をとったところ、伊原から、買戻しの契約をしてあるので手を引くから、木更津の被告人と話をしてくれといわれた」旨記載されているけれども、「買戻しの特約」に関して伊原がいかなる状況でどのような趣旨のことを述べたのか、それを在原真也がどのように理解したのかについては直接確認できないものであるから、右記載のみを過大視して本件特約が存在していると推認することはできない。

また、関係各証拠によると、平成五年三月、被告人は、伊原に対し、本件特約の存在とその解消の経過を記載した手紙(甲一九五)を差し出し、伊原は、右内容を了解した旨の手紙(甲一九四)を返していることが認められる。そして、伊原は、それに先立つ平成四年一二月二日ころ、上司の佐々木昭夫の指示により、被告人に対し本件特約を解消する旨を告げた旨供述し、被告人もこれに沿う供述をする。しかしながら、佐々木昭夫は、前記のとおり、そもそも本件特約が存在していることを否定しているのであるから、同人からその解消を指示されたとする伊原の右供述は信用し難く、仮に同人の指示があったとしても、それは、本件特約のことではなく、前記のような在原土地の売買の斡旋をする義務をいうものと理解するのが相当である。そして、被告人の右手紙については、仮に本件特約があったとすれば、前記のとおり、被告人は、平成四年春ころまでに在原諒の相続人との売買交渉をして一億円で売買する見込みを得ていたのであるから、緑営不動産がその報告を受けながら結局その買収を断念した際に、本件特約の解消を確認しておくのが合理的と考えられるのに、そのころには何もしないままで、国税局の査察が開始され相当程度進んだ段階の平成四年一二月になってこのような手紙を差し出したのは不自然であり(なお、被告人が大蔵事務官の取調べに対し本件特約の存在を供述するようになったのは、平成四年六月一八日付け供述調書(乙三二)からであることが窺える。)、国税局の査察を意識した工作との疑いを払拭することができない。また、伊原の右返書についても、その内容が緑営不動産の業務に係わることであるにもかからわず、上司に相談することなく、伊原の独断によって出されていることなどに照らし、何らかの理由から被告人の要請に応じたものとみることができる。したがって、右のような手紙がやりとりされているからといって、本件特約があったということはできない。

6  以上のとおり、本件特約があったとする被告人の供述及び証人伊原の供述は信用することができない。

六  以上検討したところによると、本件売買に本件特約はなかったものと認められる。したがって、原判示第三の事実につきほ脱の故意を欠く旨の論旨は、理由がない。

第三  控訴趣意中、原判示第一及び第二の各事実に関する売却不動産取得費の事実誤認がある旨の主張について

一  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、昭和六三年に売却した三物件及び平成元年に売却した一物件の各取得費について、検察官の計上額以上にはこれを認めていない。しかしながら、弁護人は、右の点について、検察官の計上額以外に、昭和六三年に売却した木更津市清見台東物件(もと三宅隼雄所有)の車庫、擁壁、門扉等の設置工事費として二〇七八万九一四八円、木更津市清見台東物件(もと渡邉宗治所有)の駐車場工事費として八六八万八五五八円、木更津市畑沢物件(土地)の追加土地造成工事費として三〇三五万三四八八円、富津市西大和田物件(借地部分)のコンクリート塗装工事費として九一九万九二二一円の取得費がある旨主張し、被告人もこれに沿う供述をしていたところ、検察官は、これを否定するに足りる何らかの立証も行っていないのであるから、「疑わしきは被告人の利益に」と原則に照らし、被告人の右供述を排斥できないはずである。特に木更津市清見台東物件(もと三宅隼雄所有)の取得費については、被告人がこの物件を買い受けて売却するまでの間に、大量の土砂を購入し、車庫の周囲にタイル壁、門柱及び擁壁の各最下部並びに門扉前敷地の床面に煉瓦の各設置工事等をしたことが明らかであり、被告人の供述には裏付けがある。したがって、被告人の右供述を排斥して検察官の計上額以上の取得費を認めなかった原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというのである。

二  そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討するに、被告人が供述するような検察官の計上額を超える右各工事費については、いずれも、請負業者作成の領収証等によりその立証は極めて容易であるにもかかわらず、そのような客観的証拠の提出がないまま、被告人がただ取得費を要した旨供述するに止まり、しかも、反面調査等によってもその裏付けが全くとれていないのであるから、被告人の右供述は信用することができず、被告人の供述にいう右各工事費は支出されていないものと認めるほかはない。

所論に鑑みて、木更津市清見台東物件(もと三宅隼雄所有)の取得費について付言するに、関係各証拠によると、被告人が昭和五四年に右物件を取得して昭和六三年一月に売却するまでの間に、庭を改良し、門及び車庫の一部タイルや煉瓦をはり、門扉を取り替えるなど工事が実施されたことが明らかであるところ、検察官においても、右の工事に関して、被告人が、小川産業に対し四五〇万円、鹿島造園に対し四〇万円、谷中造園に対し一〇五万円、伊星タイルに対し七〇万円、在原硝子店に対し五九万三〇〇〇円を各支払ったことを認めた上、ほ脱額を計算しているのであるから、右工事以外の工事がされたかどうかの点を含めて、右物件につき検察官が認める計上額を超える取得費が支出されているかどうかが問題になる。これについて、被告人は、大蔵事務官調書(平成四年六月五日付け、乙二六)中で、松本建材の松本正臣に車庫、門等の設置工事をしてもらい、三五〇〇万ないし三六〇〇万円を支払った旨供述していたが、国税当局が調査した結果、松本正臣は、被告人が右物件を取得する前に倒産し、所在不明になっていることが判明した(甲三五の大蔵事務官作成の調査書)。そして、被告人は、原審公判廷に至って、右と同額の工事費を支払ったとするものの、施工業者は松本建材の下請業者である旨の供述に変えながら、下請業者の名前、所在地、支払経過等についてはこれを具体的に説明できないでいるなど、その供述は一貫性を欠いている。また、被告人は、原審公判廷において、従前の擁壁の強度が足りなかったので、車庫、門等の工事をやり直したが、前のデザインが気に入っていたので、写真を撮っておいて同じ物にしたと供述するが、この供述内容自体、著しく不自然である。したがって、被告人の供述は信用することができず、検察官の計上額以上に取得費が支出されていることを疑わせる証拠は存在しない。以上によると、右物件の取得費については、検察官の計上額以上のものはないと認めるのが相当である。論旨は、理由がない。

第四控訴趣意中、量刑不当の主張について

所論は、被告人を懲役二年及び罰金一億八〇〇〇万円に処した原判決の量刑は、重過ぎて不当であり、被告人に対しては執行猶予を付するのが相当であるというのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討するに、本件は、被告人が昭和六三年分から平成二年分までの各所得税の納付について、不動産売買により多額の所得があったにもかかわらず、自己の取引及びその収支を明らかにする帳簿等を作成せず、ダミー会社を介在されてその取引であるかのように装って取引の事実を隠匿するとともに、売買代金を自ら開設した仮名・借名名義の預金口座に入金するなどして所得を隠匿した上、所得税の申告を行わずに、合計八億円余りの所得税金額をほ脱したものである。このように、本件のほ脱額は巨額である上、ほ脱率は一〇〇パーセントであり、ほ脱の手口も巧妙で悪質である。所論は、本件の所得税は、いわゆるバブル期に異常にふくれ上がった不動産価格を基準とするものであり、被告人のように譲渡益をそのまま不動産投資に回している限り、譲渡の大部分はまさにバブルのごとく消えているのであるから、実体からみれば、被告人は、見掛けの利益のために異常に高額な税金を負担させられる結果となっているというけれども、それは、被告人が納税をせずにその分を含めて不動産投資に回したために生じたに過ぎず、自らが招いた結果というほかないのであるから、そのようなことはがあるからといって被告人に有利に斟酌することはできない。以上の諸事情に照らし、本件の犯情はよくなく、被告人の刑事責任は重い。

そうすると、被告人は、本件犯行後、反省の情を示し、いまだ本税等の納付には至っていないものの、その担保として数多くの不動産を提供し、その全部又は一部につき納税される見込みがあること、被告人は昭和五七年に傷害罪により罰金に処せられた後は前科前歴がないこと、その他所論指摘のような被告人に有利な事情を十分に考慮しても、被告人を懲役二年及び罰金一億八〇〇〇万円に処した原判決の量刑は、まことにやむを得ないものであり、これが重過ぎて不当であるとはいえない。論旨は、理由がない。

第五結論

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 酒井満 裁判官中野久利は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 香城敏麿)

控訴趣意書

被告人 長谷川忠治郎

右の者に対する所得税法違反被告事件について、控訴の趣意は左記のとおりである。

平成七年一二月二八日

弁護人 井上五郎

同 田邨正義

同 横井弘明

同 本田陽一

東京高等裁判所第一刑事部 御中

第一 原判決には、以下に述べるとおり判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実誤認があり、かつ、量刑が不当であるから、その破棄を求める。

第二 事実誤認について

一原判決は、弁護人が主張した被告人と伊原大二郎間の特約の存在を否定し、さらに右当事者間で白紙撤回の話が出たこと自体も否定する。

1 原判決は、本件特約の有無の検討のまとめとして(原判決三〇~三一頁)、『平成二年二月七日の交渉等の際、緑営不動産側が在原土地の買収を希望したことは明らかであるが、その際交わされた話は、本件売買の後も、被告人において緑営不動産が在原土地を取得できるよう所有者に働きかけるよう努めるというにとどまり、それ以上に正式売買を右買収終了時とすることや買収不成功の場合に白紙撤回することなどは合意されていないと認められる。」として、特約自体の存在を否定する。

さらに、原判決を子細に検討すると、単に特約の合意を否定するにとどまらず、当事者間で白紙撤回の話が出たこと自体も否定する。すなわち、右判示において当事者間で交わされた話が「被告人において緑営不動産が在原土地を取得できるよう所有者に働きかけるよう努めるというにとどまり」としていること、緑営不動産の作成した「不動産買入承諾書」の記載との対比において、「伊原が同日の交渉で白紙撤回まで要求したというのは、こうした流れと整合しない。」(同二一頁)と述べていることからすると、被告人・伊原間において白紙撤回の話が出たこと自体までも否定する趣旨と解さざるを得ない。

2 しかしながら、特約の存在、さらには当事者間で白紙撤回の話が出たこと自体までも否定する原判決には以下に述べるとおり重大な事実誤認がある。

二 問題となる特約は、以下のとおりの内容である。

a 在原土地が買収できた時点で正式売買とし、できない場合は契約を白紙撤回して、代金全額と蔵波物件とをそれぞれ返還する。

b 買収の時期は早ければ二、三か月後であるが、東京湾横断道路の完成予定時期を念頭に二、三年後を目途とし、値段は購入価額の坪三〇〇万円を基準とし、ある程度の幅を持ったところで定める。

c 白紙撤回するか否かは緑営不動産側が決める。

三 裁判所は、検察官の主張をほぼ全面的に認めて、前項記載の特約(以下「本件特約」という。)の存在を否定する。

原審公判廷において被告人はもちろん、伊原においても多少のニュアンスの違いはあるが、本件特約の存在を認める旨の供述をなしている。

しかしながら、原判決は、右両者の供述は信用できないという。

その根拠としては、〈1〉本件特約は、極めて重要な内容を持つにもかかわらず、書面化されていないこと、〈2〉特約の内容があいまいで白紙撤回の要件が定まっていないこと〈3〉本件特約と「不動産買入承諾書」第7条の記載とが矛盾すること、〈4〉緑営不動産の内部文書には本件特約の存在を示すような記載のないこと、〈5〉在原土地の買収について、伊原や被告人らが必ずしも熱心でなかったこと、〈6〉伊原以外の緑営不動産の関係者は、いずれも本件特約の存在を否定していること、〈7〉伊原の供述も正式売買であることを認め、国税局の初期の供述においては、特約につきなんら言及していないこと、以上七点をあげる。

また、弁護人の指摘した以下の三点について、いずれも排斥する。

すなわち、〈a〉伊原が在原真也からの問い合わせに被告人との約束があるから、被告人と交渉するようにと指示したことは本件特約の存在を裏づけるという主張については、本件特約を意識したというより、価格交渉を被告人に任せた趣旨と考えられるとする。

〈b〉平成四年一二月二日に、被告人と伊原が電話で本件特約を解消したと供述し、平成五年三月には伊原がその内容を了解した返書を出している点については、伊原の上司である佐々木昭夫の検面調書、及び伊原の行動の不自然さからいずれも信用できないとする。

〈c〉本件土地の引渡がないこと、伊原が被告人に根抵当権の設定に了解を求めたことが、本件特約及び所有権が確定的に移転していないことを表すという主張に対しては、草刈りをして管理をしていること、根抵当権の設定に了解を求めてきたという被告人の供述に信用性がないとして、いずれも排斥する。

四 本件特約の存在は明らかである。

1 すでに弁護人井上五郎作成の弁論要旨(第三項、3、一四頁。以下同弁護人作成の弁論要旨を「井上弁論要旨」という。また、弁護人田邨正義外二名作成の弁論要旨を引用する場合は、「田邨外弁論要旨」という。)でも指摘したとおり、被告人は国税の取調べの当初(平成三年四月二五日付け調書)から買戻特約の存在を主張しており(ただし、原審公判廷で供述するとおり、調書においては内容が正確に表現されていない。)原審公判廷においても一貫して本件特約の存在を主張している。

また、特約の他方当事者である伊原の原審公判廷における供述も被告人主張の事実とほぼ完全に一致し、内容的にも首尾一貫していて、信用性が極めて高い。

このように、契約当事者の一致した供述があるにもかかわらず、なおかつ裁判所が特約の存在を否定した根拠の大なるものは、本件特約が極めて重要な内容を持つ約束であるにもかかわらず書面化されていないこと(本件控訴趣意書、第三項〈1〉)、その要件が一義的に確定していないこと(同〈2〉)にあると思われる。

不動産取引のような重要な約束は書面化されるし、書面化されていなければ約束の存在は認められないという事実認定は、特段の事情のないかぎり、通常一般の取引を考える上においては常識的な経験則として、特に約束の存否をめぐって当事者間に争いのある場合の民事裁判の事実認定においては是認されよう。しかしながら、本件においては右経験則適用を妥当としない特別の事情が存在する。すなわち、当時の時代背景、環境、本件取引時の当事者の事情、被告人の性格等考えるべき特別の事情が存在するのであり、単に書面化されていないから約束が認められないとするのは早計に過ぎると考えられるのである。

蔵波物件の取引がなされたのは、平成二年四月であるが、周知のとおり当時はいわゆるバブル景気全盛のころで、異常なまでに過熱した不動産ブームのさなかであった。土地は絶対に下がらないという土地神話はまさに揺らぎないもののように思えた。土地は右肩上りに上昇していくという話を、大げさに言えば全国民が信じていたのである。このような一般的事情に加えて、木更津周辺の土地取引に関しては、東京湾横断道路建設の話が一層土地の値段を高騰させる材料として存在した。

このような時代背景の下に本件取引は行われたのである。

緑営側の担当者である伊原にとってみれば、すでに会社幹部において獲得の方針が決められており、ホテル用地として利用価値が高いと認められた蔵波物件をぜひとも確保しなければならなかった。その反面、蔵波物件の有効利用のためには、在原土地の取得が必要不可欠であり(単に蔵波物件の価値がより大になるという程度のものではない。)、そのためには業務遂行上の責任者として、在原土地の取得について単なる努力目標にとどめておくことは絶対に不可であり、同土地が取得できなかったときには蔵波物件取引の白紙撤回を求めるという強い姿勢で本件特約の締結を迫ったことは、極めて自然かつ合理的であり、一審取調べ諸証拠によっても、このことは優に認められるところである。

他方、被告人にしてみれば、当時の状況からいって、本件特約はそれ程大きな負担になるものではなく、あえて書面にするまでもないことであった。被告人の言によれば、本件土地は、横断道路が完成するころは坪五〇〇万円程度まで高騰すると思われたのである(平成六年一月三〇日付け検面調書(乙三)、五丁裏)。将来いくらでもよそに高く売れるのであるから、在原土地が地上げできない場合、買い戻した上しばらく暖めていてもよいし(本件取引で取得した代金で購入した鴨川の物件を売れば、いつでも買戻資金は調達できると思われた。)、また、高い買値を提示する者が現れれば、速やかに転売してもよいと思っていたのであり、被告人にとって、将来の選択肢は豊富にあったと思われ、本件特約程度の約束は、いわばお安いご用なのであり、守るべきことは当然であった。これしきのことで書面化を迫るのは、俺のことを信用していないとして不快に思うような程度の事項だったのである。

被告人は、いわゆるたたき上げの人間である。頼るべき地縁、血縁はほとんどなく、裸一貫で今日を築き上げてきた男である。このような男が商売を続けて行くための最大の拠り所は、他人からの信用であり、たとえ口約束であっても、いったん約束したことは誠心誠意必ず実行し、他人に迷惑をかけないということである。本脱税事件に関しても、被告人が関係者に迷惑をかけまいとして、必要以上のことはなんら話そうとしないという姿勢が随所に伺えるが、その姿勢の是非は別としても被告人がいかに他人の信用を重んじる人間であるかということを現わすものである。特に本件の場合、本件取引先の紹介者であり、地元金融機関の木更津信用金庫の職員でもある渡辺賢が立ち会っていたのだから、口頭にすぎないからといって、被告人にとってはこの約束をないがしろにできる状況にはまったくなかったのである。渡辺立合に対する信頼感は、他方当事者の伊原にとっても同様であった。

2 原判決は、白紙撤回の要件が定まっていないことを本件特約が存在しないことの根拠とする(第三項〈2〉)。

しかしながらすでに田邨外弁論要旨で述べたとおり、買戻期間は、東京湾横断道路の完成を念頭に置いて、二、三年以内、在原土地の買収価格は蔵波物件の購入価格坪三〇〇万円を基準に一定の幅を持った金額という線で大枠が定まっていたのである。口頭の約束であり、細部まで条件がつめられていなかったことは事実であるが、重要なことは、東京湾横断道路の開設にむけてしかるべき期間内(ホテルの竣工が道路の開設に間に合うような期間)に在原土地が上がらなければ売買代金を返し土地を戻してもらうということであり、この点は確定していたのである。原判決は、白紙撤回の要件が明確に定まっていないことについて、強い態度で臨んだはずの伊原がそのまま納得したのは不合理であるというが、当時の不動産売手市場の状況で、これ以上細部にこだわっていては被告人の機嫌を損ね売買を断られる恐れがあったのだから、伊原としては要件の細部について敢えてつめなかったものと認められ、伊原の態度になんら不合理なものはない。当事者の立場が必ずしも対等とは言えない力関係や背後関係のある場合には、本件のようないわゆるアバウトな約束もあり得るのであり、それはそれとして存在するのであって、アバウトなるが故に存在しないとすることこそ経験則に違背する。

白紙撤回になった場合の代金返還の範囲や方法、その保全策が定められていないことも、同様の理由から敢えてここまで定めなかったものであるが、特に保全策について言えば、当時の土地相場の状況からして保全策など敢えて決めるほどのものではなかったのである(蔵波物件の所有名義さえあれば、十分保全されていると思われた。)。

3 原判決は、不動産買入承諾書第7条の特約条項と伊原の交渉態度は整合しないし、本件特約が定められたのであれば、同条項をそのままにするのはおかしいという(第三項〈3〉)。

しかしながら、本件特約は、蔵波物件購入の責任者であった伊原が交渉の場に臨んで被告人に対して強く求めたものであるから、会社内部で事前に作成されていた買入承諾書の特約条項と本件特約の内容が異なっていたとしても、不合理ではない。また、本件不動産買入承諾書は、被告人も受け取らなかったものでもあり、後にこれを敢えて修正しなくとも特約の存在を否定させるような性質のものではない。

4 緑営不動産の内部文書に、本件特約の存在を伺わせるような記載がないとすることは(第三項〈3〉)、必ずしも正確な事実認定とは言い難く、本件特約の存在を否定する根拠とはなり得ない。かえって、その内部文書を子細に検討すれば、文書化されない口頭約束の存在を推知させる内容が多々含まれている。

a「2月8日、長浦駅前土地購入の件についての打合せ事項」は、当面の課題である蔵波物件売買の基本的条件を定めたものであり、会社の内部向けとして同文書〈5〉には在原土地等については、被告人が三か月以内に地上げできるかのような楽観的な見通しを記載している。本件特約は、右のような楽観的見通しとは矛盾する内容のものであり、敢えてここに記載がなくともなんら異とするに足りない。

同文書〈5〉について、判決は、在原土地等について、「被告人が、緑営不動産が取得できるよう交渉中であり三か月以内に大丈夫と返事をした旨記載されているにとどまる。」としている。しかし、この〈5〉の文言は、正確には、「現在の物件だけの土地では価値観がないので」在原土地等について「緑営不動産(株)に必ず・・・購入できる様、知人を通して現在二者に対して交渉中であり」、そして、被告人が大丈夫だとの返事をしたというのであって、判決引用文言は正確ではないし、その引用も妥当性を欠く。以上の文言全体からは、伊原・被告人間の在原土地地上げに関する何らかの約束の存在を推知させるものがうかがえるのである。

b平成二年四月二七日付け「伺い書」については、すでに弁論要旨でも指摘したとおり、同文書は、渡辺賢に対する謝礼の支出の許可を得るため、在原土地の買収に同人の協力も必要であることを述べたにすぎず、蔵波物件の取引の性質や内容に言及したものではない。同文書に関する判示引用の文言自体からも、第二段階の在原土地の地上げについて、売主(三和産業)が責任を持って交渉することとなっておりとしているのであって、責任を持つというからには、これまた伊原・被告人間の約束の存在を推認することができる。また、一個の契約ないし合意の内容をなすものであっても、複数の取引を時間的に順次実行に移す場合に、第一段階、第二段階という呼び方をしてなんら不自然ではないから、右表現は特約の存在となんら矛盾するものではない。

c平成三年二月二日付け「伺い書」は、緑営不動産内部において検討課題とされた蔵波物件の処分方法等について、担当者伊原が作成した検討事項である。判示引用の在原土地の「買収交渉は継続しているが日時を要す」との記載は、やはり注目を要する記載である。被告人との約束はあるが、それはそれとして、バブル崩壊等により緑営側として別の資金の必要が生じ、十三億円余回収の可能性を探ったというのが正当な見方であろう。本件取引があって一年も経過しないうちのものであり、被告人に特約の履行を迫る時期にもなかったのであるから、別の選択肢を選んで検討した文書と見てなんら不合理ではない。

5 原判決は、在原土地の買収について、伊原や被告人らが必ずしも熱心でなかったことを問題とするが(第三項〈5〉)、これは原審裁判所が地上げ行為というものを十分理解していないことによる。

本件の場合、在原土地の所有者であった在原諒は同土地を手放すことにつき抵抗していた模様である。このような地権者に対しては、ただやみくもに売買を頼んでも効果が上がるものではない。足繁く通うことがかえって逆効果になる場合が多いのである。被告人には、老齢である在原諒の代替りを持って買収を実現させようと考えていたふしもうかがわれる。

伊原が取引後五か月経過した九月に初めて問い合わせたことを問題とするが、そもそも地上げには時間がかかること、本件取引の大きな部分を終えて一段落したこと、伊原にしても本件だけを担当していたわけではなく当時の不動産市況から考えて他にいくらでも仕事があったと思われること、この間夏休みも入っていたことも合わせ考慮すれば、五か月という期間何の連絡をせずとも特段不自然というまでのことはない。

被告人は、右在原に対し当初から慎重な態度で臨んでおり、直線的な物言いをする自分の性格を考慮し、直接接触することを避け、妻や信栄不動産のような第三者を介して交渉を進めていたのである。右在原が病に倒れ(平成二年七月ごろ)、次いで死亡(平成三年三月)したので、しばらく交渉をやめていたのは、病いの床にあり、或いは死後間もなくの時期もわきまえず、しつこく押しかけて行って土地を売れると迫ることがかえって逆効果であることを十分熟知していたことによる。渡辺賢も当公判廷において、四回程右在原を訪れた旨述べるが、右渡辺にしてみれば被告人が最終的にはまとめてくれるだろうという安心感もあり、親戚関係の線から交渉の橋渡しができればよいという程度の認識であったとしても不思議ではなく、右程度の交渉回数でも特段不自然、不合理なことはない。

6 原判決は、伊原以外の緑営不動産の関係者が検面調書において本件特約の存在を否定していること(第三項〈6〉)、伊原本人も蔵波物件の売買が正式売買であり代金決済とともに所有権が確定的に移転したことを肯定していること、初期の国税局の事情聴取において本件特約に触れていないことを問題とする(第三項〈7〉)。

そもそも緑営関係者の供述調書の信用性には問題がある。まず、本件特約は伊原と被告人との間で交わされたものであるから、契約交渉に立ち会ったとしてもどの程度その内容を知り得たか疑問である。この点、契約交渉の現場にはいても関与の程度が低い佐々木明(同人の供述が問題であることは後述のとおり。)、川口展弘(当初からではなく、平成二年二月一五日から関与するようになった。)の供述については警戒を要するものがある。

さらに、緑営関係者全体の供述に関してより根本的な問題として考慮されなければならないのは、田邨外弁論要旨でも指摘したとおり、緑営関係の担当者自身、国土法違反、さらには脱税事件の共犯の疑いがかけられていたことであり、これら関係者に対する取調べには相当強力なプレッシャーがあったとうかがわれることである。右プレッシャーによる供述の不自然さは、随所に見られるが、例をあげると以下なようなものがある。

(一) 中島弘好の平成五年七月二〇日付け検面調書(甲八九、一五丁裏、一六丁表)

甲一九二号の伺い書(渡辺に対する謝礼の件)を示され、同書には「売主(三和産業)が責任をもって交渉する」旨の記載があるのにもかかわらず、「地上げについては、長谷川さんが全責任をもってするということではありませんでした。そのような話は聞いたことがありません。とにかく、道路に面した土地の地上げにてまどり、当初のホテル建設の計画がとんざしてしまった」との供述記載となっており、前期「売主が責任をもって交渉する」との文書文言との間に整合性がない。責任をもって交渉するとの内容について言及がなく、「全責任」といういわば別次元の供述をしていることに作為的なものを感ずる。

(二) 山崎哲夫の平成五年八月一一日付け検面調書(甲一〇〇)

まず、九丁裏に、平成二年二月七日の禀議書(甲一八五号)の段階と思われるが、「長谷川さんが、右入口部分を必ず買収してこれを緑営不動産に売ってくれるということを伊原から話を聞いていました。」との供述記載があり、次に、一七丁表で、大手の競争相手がたくさんあり、早く物件を手に入れたいので、長谷川のいろいろの要件のみ、彼を怒らせないで買収を成功させたいと思っていたとの趣旨の供述記載があり、伊原・被告人間に在原土地地上げに関する約束があり、これを口頭約束とせざるを得なかった背景事情をうかがわせるものがある。さらに、平成二年四月二七日付け伺い書(甲一九二号)について、さきにも触れたように、第一段階は終了したが、第二段階の買収が残っており、これについては、「今回の売主(三和産業)が責任を持って交渉することとなっております」との記載があるのに、この文言特に「責任を持って」の具体的内容について全く言及がない。売主が責任を持って交渉するという重要な事項が記載されているにもかかわらず、緑営不動産の代表者の供述にこれについてのなんら言及がないというのは理解しがたいことである。また、この調書には、伊原の国税係官に対する重要供述の記載もあるが、この点については、別の観点から後述する。

(三) 佐々木明の平成五年八月二五日付け検面調書(甲九八、一九丁裏、二〇丁表)

平成二年二月七日付け買入承諾書の特約第7条につき、「白紙に戻すという約束まではありませんでした。」、「いわば努力目標」と断定的供述をしているが、同人は、蔵波物件の買い取りに元々反対であり、二月七日の会合においても、メモもとらずやりとりを漫然と聞いていただけと述べ、会合内容を文章にするよう伊原から求められたのに、その作成文書について、伊原から、内容もわかっておらず、ポイントをつかんでいないと叱責され、そして、二月一五日の公認会計士や石井弁護士との会話内容をほとんど知らず、それ以降は本件売買交渉から全く疎外されていたと述べているにもかかわらず、白紙に戻す約束はなかったなどとなぜ断定的に述べることができたのか、まことに不思議である。

(四) 佐々木昭夫の平成五年七月一四日付け検面調書(甲九七号)

右佐々木の供述によれば、本件取引について、買手側の緑営不動産の経理元帳に一切の記載がないという。また、東京湾観光の経理処理も非常に遅れている。「処理を忘れていた」と供述しているが、一三億円余りの巨大取引であるだけに非常な疑問が残る。取引に流動的要素があり、在原土地を含めた一体としての取引が完了していないための遅れではなかったのかの疑念が残るのである。さらに、在原真也からの申入れに基づく在原土地の買入れにつき、伊原に対し、長谷川との口約束に基づき同人に交渉をまかせるよう指示したとの事実関係についての言及が一切ないものも極めて不可解である。

本件において、国税局及び検察官の取調べがかなり強引に進められていたことは、被告人の公判供述及び伊原が公判廷において検察官の尋問に対して、一瞬気色ばんでそんなに言うなら一言いわせてもらいます、検察官の調べというのは自分の話したとおりのことを書いてくれない旨供述したところからも強く窺われる。例え一流と呼ばれるような会社であっても、会社にとって税務署ほど怖いところはない。また、サラリーマンにとっては会社とわが身が一番大切なのである。会社に国土法違反や税法違反の嫌疑がかけられている時に、利害得失を考えないで事実をたんたんと供述するサラリーマンがどれだけいるであろうか。検察官らに強く迫られれば、迎合的な供述をするのはむしろ当然であり、それをしないようではサラリーマンとしては失格なのである。それだけにこのような調書は非常に危険性を持っていることを、裁判所は理解を示すべきである。

伊原の証言は勇気のある証言である。検察官は、業務遂行上の責任を追求されることを恐れて行った証言であるというが、的外れというほかない。そのような根拠は全くない。

伊原の証言を全体的に見ると、サラリーマンとしての保身と一市民としての良心とが葛藤し、両極に揺れ動いている。伊原の置かれた立場を考えるとき、検察官の主張に敢えて異を唱えたところに、伊原証言の真実をみるべきである。

本件捜査を虚心にふり返ってみると、本件特約の存在を子細に吟味するというよりは、ただやみくもにこれを否定し、つぶすことに重点が置かれたように思えてならない。そして、その結果が前記不合理、不自然、不可解な諸点を残すこととなったように思われる。

裁判所が伊原が正式売買であることを認めたと指摘する証言についても、田邨外弁論要旨(第一、二、(三)、一八~二一頁)でも述べたとおりそれを子細に検討すれば、検察官の法律的な理屈に抗し切れなかったものにすぎず、本人の気持ちを率直に述べたものではない。検察官との論争を避けるために「商売」との表現を使用してはいるが、本人の認識としては蔵波物件と在原土地の取得を不可分一体ととらえていたことは明らかであり、したがって、伊原が平成二年四月の時点において正式売買があったと認めたというのは不正確極まりない。

次に、原判決が国税当局に対する伊原の当初の供述は、「本件特約について何も言及していない」とすることについて反論する。

これは重大な事実誤認があるといわなければならない。

すなわち、第三回公判の証人尋問で、伊原は、検察官のいわゆる地上げ不成功なら白紙に戻すとの件につき、「今あなたが証言されているようなことは国税局や検察庁で事情を聞かれたときは一切話してはいなかったんじゃないですか」の問に対し、「いや、私は言ったつもりですよ。」(四〇丁裏四一丁表)と答ている。また、井上弁論要旨ですでに指摘したとおり、平成三年五月二〇日付け大蔵事務官作成調書(甲九一号)で、長谷川が「『買収できなければいっさい責任を持ちます。』というようなことを言っていました。」との記載(二三丁表)があり、さらに、平成五年八月一一日付け山崎哲夫の検面調書(甲一〇〇号)中の二〇項(一審不同意を撤回し、同意書面とし、反証として取調べを請求する。)に、「伊原が、東京国税局の査察調査で長浦駅前物件の隣接地の買収ができなければ、同物件の取引は白紙の状態に戻す約束になっていたなどと述べているということを、査察官から聞いた・・・」との記載がある。このように伊原が当局の取調べにおいてその趣旨の供述をしたことがうかがわれるのに、調書上その記載のないことの方がむしろ問題であろう。原判決の前記判示は、事実誤認というほかない。

五 原判決は、弁護人が指摘した三点(第三項〈a〉、〈b〉、〈c〉)については、いずれも特約の存在を根拠づけるものではないとして、排斥する。

1 在原真也の問合わせに対して、伊原が被告人との約束があるから被告人と交渉をするように述べた点について(渡辺盛証言、伊原証言)、これは価格交渉の依頼と理解でき、特約の存在を裏づけるものではないという。

しかしながら、この点については、特約があったからこそ交渉を依頼したと見るのがむしろ自然な見方というものであろう。そして、渡辺盛の業務日誌にある「買戻の約束をしてあるので、手を引くから木更津の長谷川さんと話ししてくれ」との記載は、本件特約の存在を強く推認させるものがある。渡辺盛と被告人は直接の利害関係を有していないこと、形式においても、また実体においても記載の連続性が認められる業務日誌に記載されていること、右記載が平成三年一二月という比較的早い時期になされていることを合わせ考慮すれば、右記載は非常に信用性が高いというべきであり、原判決がこの業務日誌について言及するところがないのは、甚だ遺憾である。

2 原判決は、本件特約を電話で解消したとする、被告人と伊原との一致した供述や、特約の解消を確認したとする手紙の信憑性は乏しいとする。

その根拠として、佐々木昭夫の調書を援用するが、この調書の信用性が問題であることは前述のとおりである。さらに伊原が手紙を出したことについて上司である右佐々木に報告しなかったという点を問題としている。しかしながら、すでに緑営不動産においては蔵波物件の売買を確定させるということで方針が決定しており、被告人とのやり取りは事後処理に過ぎないのであるから(被告人に会社の方針を伝えることは、被告人にとっては重要ではあるが、右方針が確定した緑営不動産としてはさして重要な手続きではない。)、右のことについて上司に対して報告を忘れたとしてもそれほど不自然なわけではなく、これをもって信憑性がないという根拠にはなり得ない。

3 明確な引渡がないこと、根抵当権設定に了解を求めたことが本件特約の存在を裏つけるという主張に対しては、草刈りをして管理しているし、設定の了解を求められたという被告人の供述は信用できないとして排斥する。

しかし、草刈りは境界の立会や測量とは質的に異なり、これをしたからといって引渡ないし引渡のあった状態とみるにはいかにも不十分である。また、裁判所の指摘するとおり被告人と伊原の供述とでは一致しない部分もあるが、伊原の思い違いである可能性も十分あり、これをもって決定的なものとはみなしがたい。基本的に伊原の供述の信用性を否定しておきながら、他方で伊原の証言に照らし被告人の供述は信用できないとする原判決は、あまりにご都合主義の解釈である。

六 以上、述べたとおり、原判決が特約の存在を否定する根拠として上げるところは、それぞれいずれも合理性を欠き、重大な疑問がある。

さらに、根本的に問題となるのは、原判決の事実認定の手法である。特約の存在は、構成要件を阻却させる事実ないし故意を阻却させる事実であるから、それが存在する可能性のあることが立証されれば、その不存在についての立証責任は検察官側にあることは言うまでもない。特約の不存在について疑わしい場合は、被告人の有利に認定されるべきであり、もちろんこれを存在しないとして認定することは許されないはずである。

本件においては、契約の当事者である被告人と伊原とが特約の存在を基本的に認めているのである。そして、この契約当事者の一致した供述の存在は、特約の存在を強力に推認させるものであるから、これを否定するためには、反対の強力な立証が必要なはずである。

原判決が特約の存在を否定した最大の根拠と思われる〈1〉書面が作成されていないこと、〈2〉要件が定まっていないことの二点は、対立する契約当事者が合意の存在自体を肯定している本件のような場合には、合意の存在を否定する根拠としては不十分である。例えば、立証責任が分配されている民事事件においては、対立する契約当事者の一方が成立を主張し、他方がこれを否定するような場合には、右の各事実は不存在の有力な立証となり得るが、訴追側に立証責任が存在する刑事事件の場合、これと同様には解しがたい。

その他、原判決が特約を否定する根拠としてあげる〈3〉「不動産買入承諾書」第7条の記載、〈4〉緑営不動産の内部文書には本件特約の存在を示すような記載のないこと、〈5〉在原土地の買収について、伊原や被告人が熱心でなかったこと、〈6〉伊原以外の緑営不動産の関係者が本件特約の存在を否定していること、〈7〉伊原の供述の中にも特約の存在と矛盾した供述のあることは、いずれもそれ自体せいぜい特約の存在を多少疑わしめる程度のものに過ぎず、決定的なものではないばかりでなく、証拠を子細に点検すれば、むしろ、特約の存在を推認させるものが数多存在することは、前述のとおりである。

弁護人は、〈a〉在原真也の問合せに対する伊原の指示、〈b〉伊原と被告人間の書簡による本件特約解消に関する経緯、〈c〉本件土地の引渡がないこと、伊原が根抵当権の設定に被告人の了解を求めたこと、以上の三点を本件特約の存在を推認させる間接事実として主張した。原判決は、〈a〉については、伊原の対応に、価格交渉だけを依頼した趣旨とも解され、本件特約を前提としなければ理解できない事項ではないとし、〈b〉については特約解消に関する被告人と伊原の供述は疑わしい、〈c〉については、前提事実に疑問があるとして、右各主張を排斥する。右各主張を排斥することの不当性は前述したとおりであるが、そもそも、弁護人の右各主張は特約の存在を裏付ける主張なのであるから、これらの主張が単に他の解釈も可能であるとか、疑わしいというだけでは、特約が存在することを否定し切れないはずである。少なくとも、合理的疑いを越えて、特約の不存在を立証したことにはならない。

七 以上述べたとおり、本件特約は存在しなかった、及び被告人・伊原間で白紙撤回の話も出なかったという原判決の事実認定については、重大な事実誤認がある。

そして、右事実が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

1 すでに弁論要旨で指摘したとおり(田邨外弁論要旨、第一、二、2、3、二四~二六頁)、不動産売買に解除条件が付される場合も、売買代金支払及び所有権移転登記の完了時をもって、所有権の移転時期すなわち売主の収益計上時期と解してもあながち不当ではないが、本件のように解除条件が買主の要求によって付せられ、かつ、その成就、不成就が第三者の意思にかかわっているため、解除の可能性の少なくない場合に、解除条件の成否と全く無関係に実体的な所有権の移転時期を確定することは、売主である納税者に酷に過ぎ妥当とは言いがたい。

本件においては、代金の支払い及び登記の移転があった平成二年四月一〇日を所有権移転時期とすることについては、合理的疑いをさしはさむ余地が大であり、そうであれば納期限の到来していなかった被告人にほ脱犯の成立する余地はない。

2 また、同じくすでに弁論要旨で指摘したとおり(田邨外弁論要旨、第一、三、二六~二八頁)、本件特約は、被告人の故意を阻却する。すなわち、被告人は、本件特約から在原所有地の地上げ完了までは所有権の確定的移転はないとの認識であったことは明らかであるから、仮に客観的に本件譲渡所得の計上時期が平成二年中に到来していたとしても、被告人は無申告ほ脱犯の故意を欠く。

さらに、万一本件特約の存在(合意の成立)自体が認められないとしても、すでに本件特約の存在を検討してきたところにより、当事者間で白紙撤回の話が出たこと、被告人が白紙撤回の話を信じていたことは十分認められるから、本件特約の存在が認められる場合と同様、被告人の故意は阻却されるというべきである。

原判決は、「五検討(三)被告人の犯意」(三一~三二頁)との標題の下に、本件特約の存在を否定し、被告人が本件特約が結ばれたと誤信するような経過もなかったし、平成二年中の本件売買による所得の納期限が平成三年三月一五日であることを認識していたものと認めるとした(前段)。そして、「被告人が自己の収入の捕捉を困難にする行為をしていたことからすると、被告人は、前期納期限における不申告の際に、本件売買による所得について、ほ脱の意図をもっていたことは明らかである。利益が多額であったことなどから右所得については申告するつもりであったという被告人の供述は信用できない」として、無申告ほ脱犯の成立を認めた(後段)。

以上の原判決の結論については、その不当なことはすでに詳細論述したところであり、さらに原審における各弁護人弁論要旨関係部分を引用して反論するものであるが、特に、被告人供述中、こと蔵波物件に関する限り、脱税を認めた供述は存在しないことを強調したい。たとえば、自から申告するつもりはなく、税務調査があって初めて申告するつもりだった、とか、税務調査がなかった場合どうするつもりだったかとの問に対し、「大変ずるい考えですが私の儲けです」(乙六号)とか、「私は正しい申告をして納めるべき税金を納付する気持ちはありませんでした」(乙九号)などの記載についてであるが、これらは、いずれも、蔵波物件については別だと述べており、税務調査がなかった場合との設問に対する答えを蔵波物件にあてはめたとしても、それは、あくまで仮定の問題に対する答えであって、その実現可能性を問われれば、そんなことはあり得ないというのが被告人の真意であったと認められるのである。本件特約の存在を否定し、それがあったと被告人が誤信するような経過もなかったとの判示は、到底納得ができない。

3 さらに、原判示後段部分は、余りに短兵急な結論である。ある契約関係の存否内容の判断と、関係者がそれをどのように認識していたかは、本来別個の問題であるし、不正行為があったから、ほ脱の意図による無申告であることは明らか、というのは、ほ脱犯における不正行為と無申告ほ脱との間に因果関係を要するとの法律の定めを無視した議論と言わなければならない。

この点については、原審で井上弁論要旨(第二項、四~五頁、第六項、三七~四〇頁)で詳細論述しているので、これを全面的に引用するが、一年有余の期間内においては人間の心はさまざまに揺れ動くものであり、その間に不正行為と目される行為があったとしても、そのことをほ脱結果に利用したと認められないならば、当該不正行為は結果に対して原因力を欠くことになるので、ほ脱犯は成立しない。

本件蔵波物件に関する限り、無申告罪の成否はともかくとして、脱税の意思はなかった旨被告人は終始供述しており、無申告に至った理由は、本件特約の存在、ないしは、これに関する被告人の文書化されなくとも、約束は約束として必ず守るつもりであったとの意識にあったことが優に肯定されるのであり、少なくとも、これをそうでないとする反証はないに等しいのであるから、本件において、判決挙示の不正行為とほ脱犯との間の因果関係は否定されなければならないし、少なくとも因果関係成立には重大な疑念があるというべきである。

また、小悪はなしても大悪はなさない、という心理は、一般人の意識として奇異なことではなく、むしろ普通一般の意識としても妥当性を持つものであるから、これに関する被告人の供述を何の理由も示さず、簡単に信用できないとした判示は、納得できるものではない。

以上の因果関係の問題については、弁護人は原審において強力に主張したが(前掲井上弁論要旨)、原判決はなんらこれに答えていない。これに対する判断いかんは犯罪の成否に直結する重大な問題であるから、その点についての判断がないのは、重大な判断の遺脱があるというべきである。

4 以上より、原判決の事実認定は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、速やかに破棄されるべきである。

第三 量刑不当について

一 被告人は、本件で問題となっている一連の不動産取引によって得た売買代金の大部分を不動産投資に回している。そのため、いわゆるバブル経済の崩壊により、被告人の取得した資産は取得時に比して大幅に下落しており、現在被告人の手元にはなんら利得が残らないばかりか、大幅な含み損失を抱えた状況になっている。

すでに田邨外弁論要旨(第三、二、四四頁)において指摘したところであるが、被告人は保釈金を捻出するために市原市姉ケ崎の土地を取得価額の三分の一以下で売却しなければならなかった。また、本件滞納所得税を納付するため、現在、手持ち不動産の売却をすべく必死の努力をしているが、不動産市況の極端な冷え込みのため、買い手が現れず、遺憾ながら本控訴趣意書提出時点においては税金の納付の見込みが立っていない状況にある。

本件で問題となっている所得税は、いわゆるバブル期に異常にふくれあがった不動産価格に対して課されているものである。確かに単年度で見れば、譲渡益が出ているとしても、被告人のようにその譲渡益をそのまま不動産投資に回しているかぎり、譲渡益の大部分はまさにバブルのごとく消えているのである。実体から見れば、見かけの利益のために異常に高額な税金を負担させられる結果となっており、身から出た錆とは言え、被告人にとっては甚だ苛酷な結果になっている。

二 被告人が十数年来前科前歴のないこと、数々の優れた長所を有する人物であり、夫として父親として家族から敬愛されていること、滞納税金について、いまだ納付には至ってはいないが、差押を受けた三八〇〇万円の預金をそのまま納付した上、二〇筆以上の土地等を担保に提供して納付の努力を続けており、近い将来納付されることが確実であること、今回のことについて深く反省し、再犯の恐れが全くないこと、以上の諸事情を合わせ考えれば、弁護人の執行猶予の主張を退け、懲役二年、罰金一億八〇〇〇万円を科した原判決は、著しく重く、量刑において不当であり、破棄されるべきである。

控訴趣意補充書

被告人 長谷川忠治郎

右の物に対する所得税法違反被告事件について、左記のとおり、控訴の趣意を補充する。

平成八年四月三日

弁護人 井上五郎

同 田邨正義

同 横井弘明

同 本田陽一

東京高等裁判所第一刑事部 御中

一 原判決は、弁護人の取得費控除の主張をいずれも排斥しているが、その理由はいずれも「被告人は公判においてこれに副う供述をしているが、被告人の公判供述は信用できない」という趣旨のものであり、信用できないとする根拠は「その供述が曖昧であり、あるいは不自然である」というものである。しかしながら刑事訴訟における公訴事実存在の証明責任は検察官に存することは自明のことであり、本件のように検察官において被告人の公判供述を否定するに足りる何らの訴訟行為も行っていないにも関わらず、単に供述が曖昧であるとか不自然であるとかという理由で被告人の公判供述を排斥するのは「疑わしきは被告人の利益に」の刑事訴訟の原則に明らかに反するものである。

二 「疑わしきは被告人の利益に」の原則は、およそ一人の人間に刑罰を課す以上、被告人の言い分には謙虚に耳を傾け、犯罪事実の証明には厳格さを要求せよということであり、これにより無辜の罪人を防ごうというものである。原判決は、この被告人の言い分に謙虚に耳を傾けることを忘れ、被告人の公判供述は元々疑わしいとの予断を抱いての審理が行われた結果であると言っても過言ではなく、このため取得費の事実認定についても誤りを犯しているものである。

なお、以下の主張は、控訴趣意書の提出後に判明した証拠関係に基づくため、控訴趣意書に包括されない事項にまで及ぶものであるが、弁護人としては明白な事実誤認が存するものと思料するので、刑訴法三九二条二項を適用して審理の対象とされるよう強く希望するものである。

三 弁護人は、前記原判決の事実認定の誤りの例として、木更津市清見台東物件(以下「本件物件」という)の取得費についての判示を取り上げることとする。原判決は、本件物件の取得費の検討において(原判決三五頁八行目)、被告人の「供述は、わざわざ同じデザインにした点、右供述が検察官が前所有者を証人申請する可能性がある旨予告した後になされた点からして、非常に不自然である」と、被告人が言い逃れのためにいい加減な供述を重ねていることは裁判所には隠しようもないとばかりに判示している。

四 しかしながら、被告人が、本件物件の門扉、擁壁及び車庫等(以下「本件外構」という)に関し、相当程度の工事を行ったことは、被告人実施の本件外構の工事後の写真、すなわち弁護人提出の写真撮影報告書(原審弁第一四号証)の〈7〉の写真、検察官提出の写真撮影報告書(原審甲第五九号証)のNo.4の写真及び控訴審において弁護人提出の写真説明書(控訴審弁第一号証)の〈1〉の写真と、右工事前の写真、すなわち同説明書(控訴審弁第一号証)の〈2〉〈3〉の写真とを対比すれば明らかな歴然とした事実なのである。右工事前後の各写真の明らかな相違点として、車庫の周囲のタイル壁の有無、門柱及びタイル擁壁の各最下部の煉瓦の有無、門扉前敷地の床面の煉瓦の有無などを指摘することができ、また原審弁第一四号証の〈7〉の写真の左端のブロック塀の傾斜は、被告人供述の大量の土の搬入の事実の存在を示すものとみることができる。

なお、控訴審弁第一号証の写真説明書の〈3〉の写真は、本件物件の前所有者三宅隼雄氏(以下「三宅氏」という)から提供を受けたものであるが、同氏は、本件の捜査段階に千葉地方検察庁所属の本件担当検察官から本件外構に関する事情聴取を受けた際に本件物件所有当時の本件外構の写真の何枚かを任意提出しているようであるから、千葉地方検察庁の領置物の中にも控訴審第一号証の〈2〉〈3〉と同様のものが存在するものと推測される。さらには右三宅氏に対する事情聴取と証拠写真の存在からすると原審における公判担当検察官(本件捜査も担当)は、被告人が本件外構につき相当程度の工事をした事実があることを十分に認識していながら、その事実関係を明らかにする手持証拠を弁護人に開示せず、結局この証拠非開示により本件物件の取得費に関する弁護人の主張を排斥する裁判所の判断を得たものということができる。このような証拠開示のあり方には疑問の存するところではあるが、それはさておき、本件においては、原審裁判所が被告人の供述に予断を抱かず、弁護人主張の取得費の具体的存在を排斥するに足りる具体的な立証行為を検察官に促してさえいれば、前記事実誤認の結果は十分に避けることができたものであり、このことは刑事訴訟法における立証責任の本則に立ち返ることの重要さを再認識されるものである。

五 被告人は、三宅氏所有当時の門扉、擁壁が気に入り、これを真似て本件外構を作った旨記憶のままに供述しているのであり、控訴審弁第一号証の各写真はこの被告人の供述の真実性を裏付けるに足りるものである。このように原判決が被告人の供述は措信しがたいと断じて判示した箇所においてさえ、むしろ被告人の供述には信用性が認められるところであって、原判決の判示するところと異なり、本件に現れた関係各証拠から被告人の公判供述を信用できないと排斥することはできず、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従って弁護人の各取得費の主張はこれを認めて、この点について一部無罪の判決をなすべきである。

以上

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